夜カフェの時間

ここまで情報過多な社会になっているのなら、どんな文章でも読んでしまう人はいるんじゃないか、、、と思っているミレニアル男子。日々の生活の中で埋もれてしまうアイデアを書き留めていく、という試みたちです。

これからの世の中って

ひょんなてことから、入社してから関わっていたプロジェクトが閉じてしまった。

 

ひょんこと、と書いたが結局はコロナの影響。

自分の会社はいわゆる営業会社なわけで、影響をもろにうけまくり。

 

今の自分は、これといった担当が割り当てられていない、という上場企業の総合職としては、よくわからない状態になっている。

会社として、アサインできる業務がない、というのが現実であろう、と想像はついている。

実際、自分と同じ境遇の同期を数人知っている。

 

転職を考える。

 

この状況下でも。

いや、だからこそ、かもしれない。

 

自分の会社のような、営業会社はこれから難しい時代になってくるのではないだろうか。

意外とみんなテレワークがが使える、ということに気づいたし。

対面でなくても話は通じるし、一緒に飲んだら盛り上がる。

 

営業不要論、なんてことが叫ばれても何ら不思議ではない。。

 

転職、ということを考える。

生き詰まり

このブログを更新するときはだいたい夜中なんだけど。

 

それって、このブログが自分にとっての逃げ場になっているからなんだと、

やっと気づいた。

 

兵庫県の田舎にまだいる。

まわりに人は少なく、お店はほぼない。

会社の都合で、2LDKに二人で住まわされている。

もう慣れたって口では言うけど、たぶんそれはマヒしているだけなんだと、

気づいたのは、年末年始に帰省した時。

 

現に、自室でこの文章を書いている今はam2:20だ。

これが名古屋の町中に住んでいたら、近くの空いてるマックとかファミレスとかに避難してたんだろうなあ、とか思う。

 

なんで避難が必要なのか、という問いには上手く答えられない。

なんか寝れないから、ってなってしまう。

べつに不眠症とかじゃなくて。

 

たぶん毎回思うところが違うのだ。

ただ、何かしらでモヤモヤしていて、文章を書くことで気を紛らわせようとしている、ということだろう。

 

長くなったが、今回のモヤモヤは

生き詰まり

である。

 

これはもう、ホントに。

ここからどうしたらよいのか分からない。

今の仕事を続けることには、疑問が大きすぎるし、単純に生活していて心が苦しい。

今の状況に陥った原因の会社に戻りたいって要求を出すことにも、大きく疑問だ。

なんでこんな仕打ちをした会社にお願いなんてしなきゃならないのか、悔しすぎる。いや。

しかし、いざ転職、となると選択肢、道が多すぎてなにも言えなくなってしまう。

 

もういっそのこと、1年くらいかけて旅してこよっかなーとか、

なにか自分でお金を稼げることをはじめようかなー、、コーヒー売るとか?

思ったりする。

 

この判断はもう少し先にしようと思っていたのに、

心の限界がやってきそうでおびえる毎日。。。

 

体調を崩して思うこと

コロナの時代だ。

体調を崩してしまって、約束を断ってしまった。

これには、とても勇気がいった。怖かった。

 

いや、そういうことじゃない。

別に、感染者数って全国ニュースでカウントされたりしてて、

吊し上げ、みたいな空気が嫌で、怖くて、

なんのなく体調が良くないって言いにくいよね、そのストレスで

かえって体調悪くなっちゃうよね、

っていうことが書きたくて何億年ぶり?にログインしたわけじゃないのに。

 

そういうことって、少なくとも自分にはよくある。

なにかを思い立って始めたのに、

気がついたら別のことのために手を動かしている、ということ。

 

思い立ったことって、すぐに記憶から無くなってしまう。

それはそうかもしれない。

がんばって考えた結論は大切だから、保持しようとするのは納得できるけど、

ポッと出のアイデアには「ポッと」くらいの価値しかないって判断されてもしょうがない気がする。

 

でも、そういうも思い付きって意外と大事な気がする。

何に、とかは知らないけど。

 

せっかく、大事な気がするって思ったんだから、それを残す作業は大切にしないと、

もったいないよね。どうせ生きていくんだし。

 

 

置いてけぼりな日々に

湯を沸かすほどの熱い愛、という映画を見た。

 

 

タイトル通り、とてつもない愛、がテーマの家族ファンタジーものであった。

ところどころツッコミポイントがあるけれど、それを押し切ってしまう役者陣の演技。特に、主演の宮沢りえはハンパねえ。みんな観た方がいい。

 

 

この映画、AmazonPrimeのサムネイルをみて思い出した。

観たいって思いながらも、結局観に行けなかったなあ、とか。

 

最近、体調が良くなくて、なぜか感傷的になりがちである。良くないクセ。

いろいろ思いだして、思ったことがある。

 

あの映画の公開、確か秋ごろだった。

インターンで知り合って、何度か遊びに行ってた、ゆなちゃんって子を好きになりそうだった秋。

 

就活とか、部活とか、バイトとか、とにかく(体より)心が忙しいなかで、なぜかとても惹かれていた。

 

なぜか、とは書いたけれど、今ではなんとなくわかる気がする。

 

当時は、ぼくも、その子も大学三年で、だけどその子は二つ上。

 

クレープ屋さんでバイトしていて、がんばって通ったりしていた。笑

会うたびに髪色が変わっていて、あ、違う種類の人だ、とか思いながら、他のお客がきてもしゃべったりしてた。

 

自分と全然ちがう出自で、違うことをして生きてきたのに、感性が似ていて、それでも自分より3歩くらい先を行っていて、、、みたいな。

そのちがいにすごく憧れていたんだと思う。

 

もう一つ。

 

誰が好き、とかこういうことはなかなか人に話したくない性格だったけど、なぜか相談、というか、めっちゃ好きな人いるんだよねーって話せたことがあった。

知り合って半年くらいの、なかなかつかみどころのなかった、知り合い、というか友達?、という微妙なラインのりさちゃん。

共通の友達を介して飲みに行ったのに、その友達はよくわからん理由で先に帰ってしまったあの夜。

 

なぜか、お互いの秘密めいたことを話し合って、いいカンジで、分かりあえた気がした夜だった。

 

 

 

いまは、大学も卒業して、二人とも遠い場所にいる。

決定的な何かがあったわけでないのに、なんだかもう会えないんだなあ、とか思う。

 

 

世の大人たちはこういうこととどうやって向き合っているんだろう。

 

 

(19.06.11)

2019年3月に大学を卒業して、就職しました。

就職先を考えるうえで、正直いって、やりたいこととか、譲れないもの、とかいうものは思いつかなかった。

それでも、なにか入りたいって思える会社、入っている姿が想像できる会社、というところを選んだ。

 

結果、全国規模の会社に決め、なんとなくではあるけれど、将来のキャリアプラン、なるものも考えたりしていた。

 

それ(=自分の希望)によって、自分の配属希望地は東京、ということで会社へ伝えてきた。

ずっと、愛知の実家で過ごしてきたこともあり、社会人の最初の、少なくとも何年かは東京で、自分の世界を広げたい、感度を上げたい、とか思っていた。

 

今現在は、兵庫県のとある町で暮らしている。

東京(or名古屋)への希望をきちんと出していたつもりなのに、なぜか、こういう配属を受けた。

関わるビジネスも全く違うし。

 

農を活かした地方創生に関わってくれ、というお題目を与えられた。

農ってとっても広いワードだし、いまメチャクチャに熱いじゃん!とか言って励まされもした。

 

こだわりがあったわけではないのに、もともとの希望、プランが、たぶんもう叶えられない、、ってなってしまうととても悲しくなってくる。

これからどうしていけばいいのか、全くわからない。

隣の芝は青いってこういうことなのか、とか。

 

不満ばかり言っていられないけれど、苦しいものは苦しい。

これがいまのわたしのピュアな気持ちである。

 

どれだけ、同じ土地に配属されたメンバーがいい奴らだったとしても、苦しいものは苦しいのである。

理想の、希望するライフスタイルの実現は難しそうなのである。

 

こちらへきて、一か月経とうとしているが、気持ちは東京、名古屋、愛知からへ離れていない、、という現実。

これからもそうなのでは、という不安、恐怖である。。

 

目の前の仕事を覚えること、周りとうまく馴染んでいくことはもちろん大切。

 

でも、それ以上に、オリジナルな自分、とでもいうような、ピュアネスな感情、周りからも、会社からもHackされていない自分を保つことを努めていきたい。

 

会社周りでは、東京一極集中がこの世の一番の問題だ、と言っている人が多い。

し、田舎って心地いいよね、、都会になんて戻れねえよ、、とかいう人もいる。

 

そういう人とも上手くやらないといけないし、自分の自由意志を蹂躙されてたまるか!っていう気持ちを持ち続けないといけない。

 

何が正解なのかわからないし、そんなものねえよ!っていう人もいるのもわかっている(つもり)。

 

自分自身が納得できる、みち(=正解)をさがして、足掻いています。

いいもんと出会うために

倉敷に行ってきた。

昔の街並みとかスゲー綺麗だった。夜も、柳と白壁がいい感じにライトに照らされていていい感じだった。

すごい良かった。

けど、すごいだけだ、と思った。

 

おいしい桃のジュースを飲んで、おいしいラーメンを食べて、ホステルに戻った。

一階がcafe&barになってる、”さいきん流行りの”ってカンジの。

 

チェックインのタイミングでいろいろ話しくれたお兄さんが、barカウンターからおかえりーって声かけてくれた。

 

ビールを頼んで、美観地区きれいっすねーみたいな話をした。

けっこう、いいもんでしょ。っていうお兄さんのあの微笑みが印象的。

 

たしかに、いいもんだなって思った。

 

すごいけど、すごいだけじゃんって思ってたのがばからしくなった。

 

有名な観光地だからなのか、愛知からはるばるやって来たからなのか、わからないけど、期待しすぎだったのかな。何のいわれも根拠もないくせに。

 

 

期待とか先入観って、視点を曇らせてしまう。

そりゃ、自分を突き動かすエネルギーになるし、未知のものに対して興味を持つきっかけになるんだから、なくなっては困るんだけど。

持たないとつまんないものだし、持てばいいってもんでもない。

 

ただ、意図的に取り除いてやることで"いいもん"が見つけられるのかもしれない。

 

人生は積み重ね

生きていくのって、いろいろなものを得ながら、同時に捨てていくものだと思っていたけど、違うんじゃないかなあって思った。

 

生きていくと、いろいろなものと出会っていく。

ものって、モノもだし、人も、お金も、知識も。

 

まだまだ僕は若いので、お金をためていこうっていう考えはないし、いまは人生のそういうフェーズではないでしょう。

 

知識に関しては、特に意識しなくてもたまるものはたまっていくし、いらないものは薄れていく。薄れていくものはいらないものであると思う。

 

モノについてもそうだと思う。

 貯めていくのは物理的に難しいし、その必要はないでしょう。

 

ここで本題、人である。

 

人とのつながりって流動的なものだし、そうあってしかるべきだと思っていた。

環境が変わると、接点を持つ人たちは変わるし。

 

そうやって、新しい人と出会って、接していくことで、人は新しい何かを得ていくことができるんだと思っていた。

だから、生きていくのって面白いし、新しい出会いがあると同時に、接点が小さくなっていく人が出てくるのは必然でしょって思ってた。

 

自分の人生っていうか生活を振り返ると、季節というか、フェーズに分けられると思っているんだけど、そのフェーズがそのフェーズたらしめているのは、いろいろあるけど、一番大きいのは、だれと関わっていたのかとか、誰が好きだったのか、っていうことだと思う。

 

 それくらい、人とのつながりが流動的であるっていうことは、すべての大前提になる思想だった。

 

しかし、もうすぐ人生のフェーズを移行しようとしているタイミングで、考えが変わってきた。

きっかけはずっと放置していたFacebookに向き合おうと思っただけ、なんだけど。

 

人とのつながりって、気を抜くと、薄くなりがなんだけど、今の時代、人とのつながりを保つのは、難しいことではないんだと思う。技術的には。

あくまで、技術的に簡単になったっていうだけだと思う。

 

人とのつながりは、無敵だと思う。ビジネスなつながりを除いて考えれば、人とつながっていることは、助けになるし、気づきのきっかけになるし。

なによりも単純に楽しい。

 

人とのつながりは流動的なんだから、別に頑張って保たなくってもって思ってたけど。

 

自分ががんばれば保っていけるなら、がんばってみたらもっと楽しいんじゃないかって思った。

 

そして、人とのつながりって人生全体を通して、価値のあるものとして、積み重ねていける唯一のものではないだろうか。モノでもお金でも知識でもなく。