疎遠になるのに理由はいらない
年末年始のお休みも、もう終わりである。
いつも、休日の過ごした方について、あれこれ悩んでしまうのだが、(これについてはまた今度ちゃんと考えよう…)この休みだけは特別感を感じる。
中学時代の友達とたくさん会った。成人式のタイミングで会ってはいるので、すーぱーひさしぶり、という訳ではないのだが。やはり楽しい。
こういうときに会うようなヤツらは、(今の自分にとっては)付き合いの長い友達なので、おたがいにいろいろなコトがばれている(このブログは別)。ので、どんな話題でも話せる(しあわせ)。この時期に寒空の下、公園で朝までしゃべり倒したりした。(気が付いたら、近所のマックもファミレスも、居酒屋まで、26時には閉まるようになっていた…働き方改革ってステキね………)
めちゃ楽しかった。また帰ってきたら、あそぼーなって終わった。めでたしめでたし。
ここで本題。こういう集まりをいくつかやって思ったことがある。
仲良くなるのに理由はいるけど、疎遠になるのに理由はいらない、ということ。
この「理由」は、「きっかけ」って言葉に置き換えてもいいかもしれない。
今回、年始に集まったのは、中学3年のとき、同じクラスになったメンバー4人だ。
きっかけなんて、そんなもの。しかし、クラスに30人もいるなか、4人グループができあがるくらいには気が合った。
しかし、である。
このメンバーのうち誰も、集まろうって言いださなかったら。
極端かもしれないが、もう一生会うことはなかったかもしれない。
ポイントなのは、集まろうって言いだすのに、きっかけはいらない、ということである。
別に集まらなくても、楽しいこと、たくさんあるし。
親戚とか、今の友達との集まりで忙しいかもしれないし。いまさらかよ、とか。
なんとなく、いいかなって思う理由はいくらでもある。
でも、気温0度の公園で朝までしゃべれる友達なんて、そうそうできないでしょう。
恥ずかしげもなく、悩みを打ち明けられる人。
悩みに、全身全霊でアドバイスしたくなる人。とか。
1年とか2年とか、会ってないし、LINEすらしてない人。
それでも、何でも話して、本気で話を聴いてる自分にすこし驚いた。
ひとことのLINEで今後の人生の楽しさ、大きく変わるかもしれない。
SNS嫌いな自分、どうして嫌いなのかわかった。
女の子とデートしてきた。
とってもクリエイティブな子に思えて、ステキだなと思った。し、いっしょに居てになんだか気後れする自分を感じたりもした。自分はアウトプットが苦手だし、自意識が過剰なんでしょう。。(こんなブログかいといてよく言うわホント、、笑)
instagram、Facebook、twitter、、、、とかについていろいろ思った。
今日の子も、インスタとかよく分かんねっていう僕に、いっしょに食べたトルコ料理の写真をアップしながら、インスタについていろいろ教えてくれた。
その中で、どんな写真をアップしてるのかってその人が出てるからおもしろいって言ってた。その子は、けっこう性格とかが出るって言ってたけど、ぼくは単にその人のSNS観が出てるんだと思った。
SNSって、いろんな人に、いろんな考えを持たれていると思う。人それぞれで、捉え方、使い方が違うんじゃないかな。
ある人にとって、Facebookは友達との近況報告ツールであるだろうし、ある人には「外面の自分演出ツール」なんでしょう。逆に、友人関係、仕事、信教のこととかも公開して、自分を100%(少なくとも僕からはそう見える)表現している人だっている。
たまたまFacebookを例に挙げたけど、他のどのSNSにだって同じことが言える。「欠勤連絡をLINEで済ませるゆとり。大事なことはせめてメールしろって言う上司。」っていう話とか。LINEに対する考え方が、世代によって違いますよーっていう例ですよね。
実はここに、自分がSNSが苦手な理由があると思う。
使う人それぞれによって、SNS観が違うから、混乱するのだ。
リアルでの姿と、SNS上での姿がまるで違うように見えるひとも少なくないと思う。ある人は、過剰にリア充してるし、ある人は過剰に病んでる。リアルではそんなキャラじゃないのに、やたらと顔文字使ってくる奴とか。おっさんかよ。
そういう人を知ってるから、ネット上での知り合い、みたいなのもなかなか怖い。ネットを通して見えている姿が、本人の何パーセントなのか、分かったもんじゃない。完全に虚構ってことだってあるでしょ。
どんな相手か分からぬ相手とコミュニケーションとるって言っても、どんな相手か分からなかったら、どう接していいかわからない。だから、あさい話しかできないしつまんないし、苦手意識が芽生える。。。
ある人には、そんなの考えすぎだよ、もっとテキトーやればいいのにって言われた。
うーん。。